犬と一緒に生きるということ…
竜之介動物病院で365日 診療しているとほぼ毎日 老犬が 犬生を終え 虹の橋を渡っていく。
高齢のワンちゃんを見ていると その崇高な魂に敬服する場面が多くある。
犬は どんな時も飼主の為に尽くし支え、自分の生涯を捧げる。
入院中のワンちゃん、たとえ自分が死の淵にあろうとも飼主が面会に来ると立てる力もないはずなのに立って出迎えようとする。
意識が混濁していても尾を振って応えようとする。
そして最期の時が来ても家族が揃うまで気力を振り絞り待っている...。
犬は自分が苦しくとも飼主に心配をかけまいと最期まで忠実であり飼主を気づかう姿には感銘を受ける。
先生のブログの言葉に感銘と、私のなかにある思い、私の大切な家族の犬たちのことを感じ、同感しています。
今は触れることができなくなった私の信じる神さまになった家族たちの事。
老いた犬は、特別な可愛さを纏う。
いつから、思い出せない、いつの間にか、こんな表情になったのだろうと。
お散歩や一緒に遊ぶよりも、寄り添って見つめあったり、抱きしめあったりする時間が増える。
もう少しすると、寝ている時間が増えて、ちょっと寂しくもなる。いつも見上げてくれてた姿、いつも見つめてくれてた瞳が、懐かしくなるからかな。おかげで今度は、私たちが観察し、見つめる時間が増えていくよね。感謝と愛しさをゆっくりゆっくりと感じる時間。
ウーさんも、Buzz男を敬ってた。Buzz男が生きていた時は、私なんかよりもBuzz男を敬っていたように思えていた。だから、Buzz男に任せていたね!
それが良かったと思ったのは、Buzz男が亡くなって直ぐに気づいた。もっともっと一緒に皆んなで過ごしたかったけれど、Buzz男が見せて伝えてくれたこと、時間は長くはなかったけれど、ウーさんを見れば誰もが分かるはず。
Buzz男からWoodyは多くの生き方を学び、受け継ぎWoodyは生きている。私は、WoodyのなかにBuzz男が宿ったような気がしています。それは、Buzz男の時にも思っていたこと。
ずっとずっとずーーっと、一頭の犬のなかに多くの犬たちの姿が宿っているのを感じる。これが多頭飼育のなかにある素晴らしいものです。
私は、愛し生きることを彼らに教えられながら、彼らの一生の世界として素晴らしいものであれるように常に反省と努力を続けていく。
動物が好きだから、犬が好きだから、可愛いから、飼うとか家族になるのとは、私は違うんです。私の人生のなかで犬たちの存在、彼らと生きることは私が本当に必要としてることなんです。一方的で身勝手かもしれない、お願いして一緒に生きてもらっているのかもしれません。
だから、とっても大切なのです。だからこそ、大切にしなきゃいけない。私たちが守り育まなきゃ、常にこの両手を使い、お世話し気にかけ、小さな命に私たちのチカラを添えて大きな健康を。共に生きることの幸せを感じ共にあゆむ時間、少しでも長く少しでも多くの喜びを、長生きしてもらわなきゃ。
彼の幸せは、私次第なのだから。
預かった命、託された命、触れることで重い思いを暖かさから感じます。
子どもの頃に誰もが教わったはず、自分のものに名前を書けないような、所有者の明示もしない飼い主の人たちが、犬が好きとか動物が好きとか信じない。犬たちが必要とすること、犬たちを幸せにする努力が出来ない自分勝手で無責任な飼い主の人たちを理解など出来ない。
命を粗末にする
法律も守らない
動物を下等に扱う
動物を可哀想と思わない人間の心が問題を引き起こしている、私たちを傷つけたりしない純粋で美しい動物たちが、人により傷だらけとなる世界は間違ってるでしょう。
Lovely days CHIKA'S MIND TRIP
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