裏切る人間は、飼い主になることはできない… #中日新聞 #ダブル介護


この1枚の犬の写真に添えられいた言葉、それが以下のように書かれていました。

父が散歩の供にしていた犬。保健所から引き取りました。情緒不安定で急に走りだし、父は何度も転ばされていました。保健所に引き渡す時は抵抗しましたが、最後は自分から車に乗ったそうです。

この犬の写真は、こちらの中日新聞の生活部記者による『両親ダブル介護』のなかに掲載されたものです。

動物愛護の目線で見れば、起きてはならない持ち込みという批判に値するような内容であり、高齢化社会に起きている不幸なペットの問題でありますが…  この方の記事は飼い犬についてではないので、どのように書いたら良いか考えましたが、先ずは下の中日新聞の記事の方を読んでみてください。


まるで、父(享年八十一)に魂の半分を持っていかれた感じだ。父と母(82)両方の「ダブル介護」だったのが、一方は終わったはずだ。なのに、心身の疲労と失調が著しい。

持病のパーキンソン病の症状も、父を亡くしてから目に見えて進んだ。パーキンソン病は精神状態が症状に表れやすい病だと実感する。

歩行もすり足で、遅々として進まない。先日はバランスを崩して倒れそうになり、同僚の助けを借りた。

確かに父の介護は終わった。
葬儀は喪主として、葬儀会社の担当者に言われるままにしているうちに済んだ。当面の各種手続きも調子を崩した私に代わって妻が市役所に出向き、代行してくれた。

父の介護保険証や後期高齢者の健康保険証を返却すると、担当者は「後日、『葬祭費』として五万円が振り込まれます」と説明したという。種々の儀礼も済み、遺骨も当地の風習に従って、骨つぼから「骨袋」に移し、墓に納めた。

だが、この虚脱感は一体、何なのだろう。決して気の合う父ではなかったが、ふとわれに返ると、父のことを考えている。これで良かったのか、との一片の後悔とともに。現実世界での介護は終わっても、脳内では父の介護をやり直している。

結末を知る現在から過去を悔いるのは、答えを見てから問題を解くようなものだが、やはり思ってしまう。

当時は哀れな話程度に思っていたが、父が飼い犬を手放したのは、寝たきりになる岐路だった。父が家にこもるきっかけとなったからだ。介護保険で住宅改修も行ったが、どれだけ役に立ったのか。この次に書くことになると思う。(三浦耕喜)





わけあり…

この記事を書かれた記者は、中日新聞の三浦耕喜さん。両親の介護に加え、自らも鬱や難病のパーキンソン病を患い、「わけあり記者」と自身で名乗り、その体験をもとにした記事とともに注目されています。ご存知のかたもおられるかもしれないです。

徐々に体の自由がきかなくなるパーキンソン病を患いながらの記者であることは、本人以外には分かるはずもない大変さがあるのだろうと察することくらいしかできませんが、私たちのように不自由なく健康で思うように活躍されていた時があれば尚更に心の維持さえも大変だろうと思いました。


高齢化が進む日本で増加する問題はいろいろあるけれど、先日も身寄りがなく、引き取り手のいない『無縁遺骨』が日本各地で増加しているという記事を読んだばかりです。なんとも切なくて深刻な内容でした。

学生の頃の私は、自由と大人を勘違いして『早く働きたい!早く大人になりたい!』とワガママなことを言っていたけれど、大人になるって、親が老いるって、現実味が増せば、時を止めたり巻き戻したくなるような不安や暗い気持ちになることばかりで、成熟した大人ではなく未熟な大人である自分に気づき、焦りを感じることもあります。


今や多くの人達が家族の介護に直面したりしていますが、私の知るお客様でも何人もいらっしゃいます。

自身の人生や生活もままならなくなり、気づけば仕事も介護にあわせ、人生そのものが介護生活となってしまっているほどで、かと言って、声を大にして弱音を吐くことも悩みを打ち明ける人達は少なく、それぞれに僅かな自身の時間と自由を楽しみながらも思い考え悩む現実という問題を抱えているように思います。

それ故に三浦耕喜さんの悲壮感をほとんど感じない体験や強い言葉に反響が集まり、分かっていてもなかなか出来ない人が多いように思う周囲のヘルプの活用、働き続ける術は、考えさせられることが多く、勇気や参考になり、感動したり言葉に救われたり優しさや元気に感じられたり…

読む人にとって、それぞれの立場にとって、心の支えとなったり、行き詰まり息詰まる生活のなかで、『共感』という心理が少しでも前向きになれるものであれたり、分かち合える『優しさ』というのが踏ん張りに繋がるチカラに感じられるのかもしれないなぁと感じを受けました。


三浦耕喜さんの記事では『介護』についてが中心となって書かれていますが、介護に関わらず『わけあり』とは誰にでもあることで、それは大小もない誰よりマシとか、比べようもないものだと私自身は感じています。


上の記事のなかに下の言葉が書かれていました。

「ハンディを持っていることは、今まではマイナス、不幸なことだと捉えられていた。実は、それこそが新しいものに気づき、人を励ましていく翼になる。」

「ハンディを持っているからこそ、気づいたり、感じたり、共感したりっていうことが、きっとある。
実際ありました。『わけあり』こそ、人を動かす力になる、人を励ます力になるということを、自分自身の『わけ』を通じて証明していきたい。」

ここで話を冒頭に戻してしまいますが、このように優しい思いのある気持ちのある方であるのならば、お父さんが保健所から譲渡を受けて飼っていた犬が抱える『わけあり』ということについても理解をもってもらえなかったのだろうかと、非常に残念に思ってしまいました。

お父さんが家にこもる岐路を機に保健所に連れていくことになったと書かれていますが、

… あんまりじゃないですか。

少し借りていたものではない、返せば済むようなレンタルではない。保健所へ持ち込むということは、生かし輝かすべき命を、その『生』を奪うことを意味するものである。

事情があって収容されていた犬。
事情があって譲渡対象になった犬。

事情を汲み取って、2度と収容されることがないように、迷子にしない、脱走させないようにと気を配りながら、終生大切に可愛がるのでしょう?

引き取った飼い主自ら再び保健所へ持ち込むということは、人間が裏切ることです。命を奪うことは取り返しのつかない罪です。

この犬は、しかも2度も保健所での時間を経験することになる。犬にとって何という不安と恐怖と悲しみを感じたことだろう。尊い犬には出来るわけないけれど、人間を恨んで死んでもよいくらいです。

事情がなんであれ、お父さんと散歩を共にしてくれていた犬への感謝の思い、散歩へ行けなくなるお父さんの代わりに家族一丸となって犬に対してできることを一生懸命に愛情を尽くす選択は抱けなかったのでしょうか。

良い飼い主として、家族として、思いやりと責任をもち、犬の生涯にも覚悟と責任をもって向き合ってあげられたならと思いました。

わざわざ保健所から引き取って家族にと迎えてくれたのだから…。

「情緒不安定で急に走りだし、父は何度も転ばされていました。」というなら、動物愛護センターでも動物病院でもドッグトレーナーにでも、どうしてそのような状態になってしまうのか、犬のことを知ろうとしてあげられなかったのでしょうか。

とても残念で悲しくて悔しくてならないのです…。

ましてや飼い主となる方に何かあった時、家族が引き受けられる状態ではないなら、絶対に買うのも譲渡を受けて飼うなどの無責任なことはしないでほしい。

犬は私たちと同じ命も心もある、物なんかではないのだから。


高齢化社会はペットも同じ。
良質なフードや予防薬や医療の向上や室内飼育へと環境が変わり、長生きできる犬たちが増えて有り難く嬉しい一方で、今までもブログに何度か書いてきましたが、犬たちの唯一の家族である飼い主さんが高齢者であることも少なくないことから、自身にいつ何時の万が一の時のことまでを約束して飼育されない人間が飼い主の場合には『問題』としてペットだけが取り残されてしまうのです。

先立たれ天涯孤独の身となったり、一緒に暮らせなくなる事情から突然手放すことになったり、彼らは何もしていない、望まれて寄り添い生きてきただけです。

それなのにです……。





適正譲渡の有無…

誰でも飼えるわけではありません。特にペットショップに並ぶ子犬や子猫ではありません。

人間の身勝手な事情や飼育の被害にあい、身元不明の動物として見捨てられた犬や猫が収容保護される訳です。

運よく譲渡動物となって新たな飼い主さんとの出会いや新たな生き方のチャンスを得られることができても、彼らにも心があり、時に飼育されてきた環境から傷つき抱える問題もあります。

新たに飼い主となる人間の生活や性格と犬の相性、ライフスタイルなどにあった飼育環境を考えて、人も犬たちも不幸な譲渡にならないように、厳しいとも言われる幸せを願う条件、トライアルは重要な機会となるはずです。

元気がありすぎたのか、
若く力が有り余っていたのか、
しつけ不足なのか、
逃げだそうとしたのか、
犬に教育を受けさせたり、コントロールができないような飼い主だったのか、何度も転倒するほど危険な引っ張るような犬を、なぜ譲渡したのでしょうか。

保健所の職員さんは良い家庭で愛されるように最低限のトレーニングもしていなかったのでしょうか。譲渡条件などにある講習や散歩教室にも不参加だったのでしょうか。家族全員の同意の上で譲渡を受けてなかったのでしょうか。

このような家庭や飼い主さんに保健所が良しとして譲渡した犬を、またどうして持ち込まれて引き取ったのか…。

とても杜撰な譲渡に思えてしまい、その譲渡の在り方に問題と疑問、多少ながら怒りさえも感じています。





不幸な誤解を招きたくない…

私は記者の方を誹謗中傷や批判するためにブログを書いてるわけではありません。

最初に書いたように、飼い犬について書かれた記事でもなく、ある意味では凄く大切な記事のなかに出てきた『飼い犬を持ち込みした』という僅かな情報と結果だけに的を絞って躍起になってブログに書くのもどうなのかと… 冷静になって考えもしました。

それは、この方の記事を読めば思うことも分かることも多いからです。素晴らしい記事を書かれる記者さんだとも思っています。

ただ、どんな事情があれ、どんな素晴らしい方であれ、だからといって、『飼い主として飼い犬について』だけは、褒められることではない、間違ったことだ、と思ったことを書かせていただくことにしました。

そしてそれは、逆もしかりです。

そもそもペットと人と人をむすぶ記事として、こういう場合に犬が不幸とならないようにという記事ではなく、人間の高齢化社会の問題や家族と介護についての自身の経験を書かれている記事ですから、犬が好きだからといっても、動物が好きだといっても、飼い主のひとりとしても、三浦さんの記事に関して動物愛護目線だけで読み判断するのも良くないだろうと何度も考えて配慮も思っています。

しかし、実際に持ち込みをされたという事実は変わらない。

これは大変な悲しみと不快を感じるものであり、高齢化社会で取り残されるペットの問題を懸念する部分として大きなものなのです。


三浦さんの書かれた体験や考えに救われる思いを得られるかたもいれば、優しい言葉に学び癒されるように聞こえる人もいる、けれど、今回のように飼い犬の命に対しての扱いは間違っている。怒りや不快な思いを感じる方も沢山いることも知っていただきたいのです。

反響の大きな本や記事を書いてる方がであり、人気のある記者の方だからこそ多くの方が評価して読まれてます。

犬の生きる自由を奪いとる持ち込みする無責任な飼い主の話を『哀れ程度の話』にしてほしくない!

注目される記事だけに読み手の皆さんにもそんな程度に思われたくない、何より誤解されたくない、世に誤解を与えてほしくないのです。

どんな立派な尊敬に値する記者の方でも影響力があっても、これだけは褒められることじゃない。間違ってます。

保健所に持ち込む判断をされるような飼い主が増えてはいけないし、そんな人がペットを飼うなんてことをしてはならない。

記事に飼い犬のことを書くなら、お父さんのされた行動の事実は変えられないけれど、保健所に出向き、実際に殺処分の体験をしてほしい。

申し訳ないことをしたと悔いて感じてほしい。飼い主が持ち込み処分する殺処分の問題に向き合って、きちんと三浦さん自身の考えで高齢化社会とペットが不幸な結末を迎えることがないように啓発に繋げてほしいです。





最後に…

私も実際に父が夏から緊急入院し、一時期よりも体調は安定はしたものの食事がとれる状態にはならず、医師の提案で胃に直接栄養をおくる胃瘻手術を受けることができましたが、秋を迎えた今でも、以前のように家庭で生活ができないとの判断があり、空きがないとも言われる施設状況のなか、運良く病院からの口添えで介護施設に移ることができました。現在たびたび痴呆の症状のように記憶障害が起きていて、脳の萎縮がみられるそうです。

誰にでも起こること。
誰にも分からないこと。
ただ何もかも受け入れて、共に生きなければならないだけ。


だが、この虚脱感は一体、何なのだろう。決して気の合う父ではなかったが、ふとわれに返ると、父のことを考えている。これで良かったのか、との一片の後悔とともに。現実世界での介護は終わっても、脳内では父の介護をやり直している。結末を知る現在から過去を悔いるのは、答えを見てから問題を解くようなものだが、やはり思ってしまう。

記事のなかにあったこの言葉は、いつかきっと私も辿るのではないかという思いになりました。それは、最愛の家族である愛犬たちが共に生き、生きるというなかで老いること教えてみせてくれた、避けることのできない死を迎えること、それを見送るしかできないときのなかでも私は同じ思いを感じたことがあるから…

悲しみと寂しさと感謝と謝罪や後悔とともに。あーしてれば、もっとこーしてれば、何度も何度も愛するあまりに脳内でやり直したこともあるからです。

実家には父が育てていたトイプードルがいます。13歳の女の子で、子供を産ませたかったようですが、人が大好きで誰にでも懐くせいか可愛がられるのですが、他の犬と暮らした経験のない子ですから、犬がとても苦手な子で、父の願った数度のお見合いもストレスがかかるため、私は避妊手術をすすめて一人っ子として可愛がって育てていました。

我が家には、ウーさんがいるのですが、彼女が暮らしていた環境に似た部屋を用意して、ストレスや環境の変化の緩和を気遣いながらも、新しい生活に慣れさせ楽しんでもらえることにも時間を使いながら大切に預かっています。

預かることは問題はないのです。お世話することなど問題なんてないんですよ。ただね、可哀想なんですよ…。

元気にしています。父と暮らしてた時と違ってワガママも言わずにお利口にしています。

父が彼女にとっての家族であり、父が大好きで13年もの時間を暮らしてきた犬なのだから、いつだって『父の声を待っている』『父の帰りを楽しみに待っている』のが伝わるからです。

だから、安易に考えないでほしいんです。

どんな理由が事情があっても、人間側の理由であって事情であって、犬が理解して受け入れたものではありません。

三浦さんは『最後は自分から車に乗った』と書いてますが、犬が話し合いに応じて事情を理解して納得して受け入れた答えではありません。

だから、
身勝手に捨てたり、保健所へ持ち込みをするのは絶対に許せるような行為ではありません。

ですが、
良い里親となってくれる方を探せばいい、新しい飼い主を見つければいい、家族が引き取ればいい、なんて事も思わないでほしいのです。

飼う以上は、その犬たちの心を一番に大切に思ってほしいんです。
犬たちにとっての最愛の家族であり飼い主は、やはり1人しかいないのだと、私は父の愛犬と暮らしながら心の底から感じて思うのです。




人は1人では幸せに生きていけない。誰もが、ある種の事情、わけありを抱えながら生きている。そうした事情を抱え生きやすいように、まわりが支えあって共に生きていける優しく豊かな社会にできるとよいですね。少子化、高齢化社会、理想ではなく実際にそれが必要に迫られた日本であるのだと思います。

痴呆になった親に接する優しい言葉遣いにはつくづく感銘を受ける。もっと優しく、優しくゆっくりと穏やかに話しかける言葉をと心がけたいと思いながら、介護とは甘いものではなく、気づけば自身までも病に飲み込まれ倒れることもあるもので、理想を装わず自然体でどうあるべきかは、私自身もまだ分からない…。

働き方、暮らし方、自身の健康、家族の介護との向き合い方、動物と暮らす人生、考えるべき課題であり、抱えるだろう課題です。
Lovely days CHIKA'S MIND TRIP


DOJINBARの女将さん 一日一楽

BLOG story,1 - 共生を考える はじめます。犬と生きる素晴らしい暮らしのために、私たち飼い主とは何か、求められているものを思い、考え、伝えて、皆さんと考えあっていきたい。 動物愛護の最後の砦は「飼い主」であるべきです。 Spell my thoughts Lovely days CHIKA'S MIND TRIP

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