蓋を開ければ殺処分ゼロチーム?
犬たちのもつ才能のなかの私が気づき見えてる才能はどのくらいだろうと思ってしまうくらい、愛犬ウーさんと暮らしていると常に発見の連続に驚かせてもらえる。(笑)ホント犬も性格も光るものもそれぞれで彼等と生きることは面白いものです。
彼等から溢れる この豊かなものにより生活がより立体的な感じになり生き生きとしてくる… 私はとても幸運な人間です。
さて、一般的に知られている犬の才能のなかでも容姿の特徴となるもの、犬の根源となるものがありますね!その美しいフォルムの鼻が持つ嗅覚です。
なにかで読んだ「人は視覚に生き、犬は嗅覚に生きる」の言葉もよく分かるほど、嗅ぎ分ける能力に優れた動物だけど、彼らが純粋であるのはニオイは誤魔化せないから。ここにあるのかも。なんて思ったりします。
さぁ、黒幕は嗅ぎ分けているかな。
どこだ!search!!(笑)
ふざけてないんですが、少しばかり疲れてます(笑)どうしてこうも次から次へと動物愛護界隈、動物を取り巻く環境は問題だらけなのか、素晴らしい犬たちが不幸にならなければならないのかと・・・。
後で読もうと溜め込むので、リーディングリストを開くだけでも気が重くなることも。そんなこともあり、ちょっと楽しい雰囲気で今日は書き始めました。
犬や猫への虐待見抜けず
殺処分ゼロ
目指し続けられた譲渡…
上の記事のタイトルを見て、どこかで聞いたような… と思う方々も多いと思います。私もそう思って開いた記事でした。そして読めば読むほど、広島県の現在と重なり、imapとピースワンコの繋がり、動物の幸せから離れた『殺処分ゼロ』のもたらした罪の大きさを痛感しています。
県と市と動物指導センターと団体…
この茨城県(茨城県動物指導センター)の記事は、とても分かりやすく簡潔にまとめられていたけど、重い内容だった。動物愛護法違反にあたる動物が受ける虐待よりも、犯罪よりも、行政は殺処分ゼロの達成を優先されたということなんだもの。
私たち人間のエゴの犠牲になる動物、まさか殺処分ゼロが招くとは誰も思わず認めたくないのだろうけれど、これは直視しないといけない。
なんとも後味の悪い衝撃です。普段はセンターや保健所、行政批判されてる人たちを見るのも嫌いなのに、蓋を開ければこんなもんかと残念に思った自分がいます。
殺処分を減らす為の責任…
もちろんセンターだけの責任だとは思ってない、県(知事)市(長)あってのことだもの。県全体の目標の問題と責任だもん。殺処分を減らさなきゃいけない責任をなんていうほどだから、私たちには見えない部分でのご苦労もあったのだと思います。殺処分などしたくないのは、どこの職員の皆さまも同じ。犬たちの生死と向き合い苦しまれてることでしょうから。
名古屋市でも市長が《猫には罪がないから殺処分はしない》と叫んだために、従わざるをえない動物愛護センターはてんやわんや… 殺処分ゼロを達成してきている確かな取り組みがある名古屋市動物愛護センターだったから良かったし、時間をかけて家庭で暮らせるよう譲渡できる立派な猫にまでにしてもらえたのだから、心から感謝と敬意を持っていますが、殺処分ゼロを訴える人たちの多くは、市長の一言に感謝や賞賛の声をあげていた。けれど、(悪いことでなく良いことであれ)市長ともなると、こんな一言を言えたりするんだと思って私ですら少し引きました。
「殺処分ゼロを掲げる県全体の目標があり、殺処分を減らさないといけないという責任感があった」
だけどね、茨城県動物指導センターも殺処分を減らす責任があったからなんて、それを言ってしまうならホントめちゃくちゃよ。分別くらいつくでしょ。
虐待の可能性がある、虐待が疑われると知った時点で、センターに求められる責任は、引き渡す動物の身の安全を守ることでしょうし、事実確認のための慎重な調査と適切な判断と然るべき措置でしょう。
センターには、「センター長が譲渡が不適切と判断した場合」に譲渡先団体の登録を取り消せるとの規約がある。
県全体のなんやらがあっても、センターの一存でできることがあるなら、一時的でも停止措置をすべきだよ。
警察に捜査の協力を求めて、登録解除に値するのか、情報の信憑性もあわせて見張っていくべきだったんじゃないのかな。
「動物が虐待されている」との情報が複数寄せられた。これを受けて職員が水戸市内の施設に抜き打ち調査を実施。だが、虐待を疑わせる証拠は確認できず、譲渡先団体の登録を取り消すことはしなかったという。
虐待の情報を複数も得て知りながら、抜き打ちチェックで証拠も確認できなかったからとして『問題なし? 』犬や猫を引き渡し続けるなんて、加担してるのと同じにならないのか、恐ろしいですね。
犯罪という内容の重大さも反映されないなら情報も何をしても無力。センター側や県全体の意向で登録の取り消しをしたくないと思えば、しないんでしょ。
殺処分をなくす機運が高まる一方で、協力してきたはずの動物愛護団体のモラルが問われる問題は他県でも起きている。6月には、犬の殺処分ゼロを目指して保護犬を引き取っている広島県の団体に対し、「一部の犬に狂犬病の予防注射をしていなかった疑いがある」として広島県警が家宅捜索した。
広島県も同様。狂犬病予防接種の際も行政は知っていた。無理が生じているのも知っていて引き渡しを続けている。やはり殺処分ゼロを達成するためにだろうか…
私たちは見せてもらえない施設内の状況、キャパオーバーの劣悪な環境も、それ故にストレスに耐えかねた犬たちによる集団リンチや死亡についても把握していて引き渡している(加担している)としか思えないじゃないですか。
今後の再発防止策について、センターは「事前通知なしの立ち入り調査を増やしたり、警察との連携を深めたり、虐待への抑止力を高めていく対策を検討したい」と説明している。
記事最後に茨城県の今後に対することが書かれていたように、広島県は特に特に直ぐしてほしいです。
殺処分ゼロを目標に掲げる団体は、行政とこうした利害の関係で結ばれているのでしょうか。
茨城県や広島県の問題だけはないだろうことに再び気付かされます。そう、私も皆様の住まいの地域は大丈夫ですか?
気を引き締めて注意深く目を凝らさなければ・・・
殺処分されずに救われたと思った犬たちに二重三重の不幸な苦しみを与えないために。そんなことを感じたリアルな記事でした。
賛成も反対もない…
念仏のように殺処分ゼロと唱えれば、不幸な動物が幸せへと導かれるのなら何にも言わない。言わざるおえないのは、何故なのか考えてほしい。
殺処分をゼロにするまえに、不幸な動物を減らすために動物を幸せにすることが優先されるべきでしょう。
殺処分ゼロについては、声高々と聞こえるようになり、時には過激な言葉とともに、誰もかれもが『殺処分ゼロ』と連呼するようになり、団体のサイトに大きく目標として記されていたり、SNSのプロフに書かれている人には近寄らないようにするほど、同じであるはずの動物愛護のなかにも異色を感じました。
それもこれも殺処分の抱える問題の本質が見えてないと思えたからで、『動物愛護』の名の下の問題として危険性をはらむ懸念があり、警鐘・啓発として、私の考えを時々交えてブログに書かせてもいただいてきました。
殺処分ゼロの在り方、特に団体などの保護活動される方々の『殺処分ゼロ』の言葉の扱い(印象操作)については、なぜそのような煽りをするのか疑問や異論を唱えていたので、殺処分ゼロに強く反応される方々からは、邪魔な存在だったのか、私が殺処分賛成派のような言われ方をされたり、勝手な決めつけからの悪い噂を広められたり、誹謗中傷も受けることもありました。そんなデマなど気にもしないのですが、正直いえば迷惑な話です。
愚痴と前置きはここまでにいたしますね、(笑)
殺処分ゼロの危険性…
ここのところピースワンコの件でも何度と繰り返し書かせていただいてきましたが、以前からというか年々『殺処分ゼロ』を目指すという雰囲気が高まっているのは感じられますよね。
しかし、どう言ったら分からないので、とても言葉は悪いけれど『馬鹿の一つ覚え』のようなものとなってる雰囲気さえないでしょうか?
殺処分は酷い、可哀想、殺処分にされないのは良いこと、それ以上にも知ろうともしない人たちもいるはず。じゃなきゃ、殺処分ゼロが『目標』だなんて、、こんなことにもなっていない気もするの。
私だけでなく、明確な取り組みが分からないのに、言葉ばかりが異常に広まり、中身がなく一向に収容動物が減らないって気がした人たちもいるはずです。
殺処分を減らそう!殺処分をしないようにしよう!と、数字の上でのゼロや無理のかかるゼロは、何処かに問題が移行してるだけ。誰かに皺寄せの負担がかかってしまうだけ。
ここを深刻に考えなければ、新たな問題が増える危険性と問題の解決に近づくことなどないということです。
クローズアップ現代の時の撮影した画像ですが、これを見れば分かりやすいと思います。どうですか?
ピースワンコのように一つの団体に引き取りの負担をかけるのではなく、行政立場での努力、団体の地道な活動努力、市民の周知と飼い主の意識の向上、こうした協力しあえる努力の連携が取れないことには無理だと思うんです。
行政は、取り繕う体質と闇雲な殺処分ゼロを目標とするのをやめるべきです。
殺処分が達成できなくなる
殺処分を減らさないといけない
殺処分を減らさないといけない
では無く、動物愛護であるのなら
不幸な動物を減らさないといけない
動物を不幸する飼い主を減らし、良い飼い主を育てないといけない
と、意識を持ちかえることでしょ。
ほんの少しの言葉のニュアンスの違いが生み出す歪み。数字がいくらゼロでも、処分されないだけで、愛されるべき存在、幸せであるべき存在の犬たちを苦しめる不幸はあるのですから。
行政のためのものではなく、団体のためのものではなく、人間本位なものではなく、犬たちのための幸せはどこにあるのでしょうか。
ポジティブに!地道な啓発、努力の積み重ね…
殺処分ゼロは、目標ではなく『結果』であることを理解し認識されないことには始まりませんが、殺処分ゼロに至るまでの経緯や取り組み、努力の積み重ねこそが『結果』であって、その結果を一言、言葉で表すのなら『殺処分ゼロ』であるということだと思ってるんです。
殺処分ゼロなんてものより、不幸な動物を減らし、幸せな犬や猫が増えることのが目標です!
その目標の問題と原因となる飼い主への終生飼育等の啓発という地道な努力から広く周知されることは避けて通れないものです。これを放置していては、問題意識の周知がされず、解決も達成にも近づけないからです。
たとえ受け皿が十分にあっても、ある面では、無責任な飼い主も増やす助長となり地域にとって悪影響が重なるような懸念もあります。引き取り先があるから、殺処分されないからとか、もともと身勝手な飼い主が図々しくも勘違いする残念な傾向があるんじゃないかと思っています。現に広島県は収容数は増えて引き取り数は予想を上回る結果となっているからです。
名古屋市などの地域全体で殺処分ゼロに取り組み、達成ができた背景にこそ糸口があると思っています。
名古屋市の場合の犬の殺処分ゼロをみると、終生飼育・適正飼育などの地道な呼びかけによる啓発活動から地域・市民への周知、飼い主の意識の向上につながり、さらに行政による適正譲渡の取り組み、ボランティアの方々との協力による譲渡活動、適正飼育における飼い主の教育や指導の取り組み、本当に多くの努力があって、引き取り数が減り譲渡が増え、殺処分ゼロが達成されています。同時に収容される数も出て行く数とのバランスから施設のキャパをオーバーすることも現時点でないそうです。
といっても、急に殺処分ゼロになったわけではないのですから、地道に努力を重ねられてきたうえでの結果であるのですね。名古屋市の友達には動物愛護センターへとおすすめするんです。センターで出会えなかった場合も譲渡会が定期的に開催されるので何度も足を運んでおられる方々もいますが、そんななかで、ペットを飼うことの考えかたが変わったり、飼い主というものの責任意識が芽生えたりするそうです。
私がピースワンコに対して書いてるのは、もしも本当に動物愛護の心からの活動であり『殺処分ゼロ』を目標とされてるなら、犬の境遇を第一に考え、不幸な動物を詰め込むような犬たちの生き方を無視した馬鹿げたことはしないはず。処分機を稼働させないために問題や原因となる1つ1つに丁寧に啓発活動されるのではないのかと疑念を抱いてしまうところなのです。
現在、里親募集と譲渡にも似た懸念を感じますが、犬たちのことなんて関係なく、里親が見つかり殺処分されなかったら良かった!だけの達成感に沸いているのを感じます。
犬たちの状態や気持ち、犬たちの幸せも生きる質など関係なく右から左へ空輸で他県へと。そして他県で脱走して見知らぬ土地で不幸にも野犬となり・・そんな不幸を撒き散らしてる結果にもなってしまってることです。
責任を持たない餌やりも同じ。何かいえば言う。もともと捨てる飼い主が悪いと。そうですよ、なのに、皆さん中身は『殺処分ゼロ』としか唱えない!幸せな犬たちが増えなければ結果もついてくるはずがないのに。
どの子も同じ尊い命…
個人の飼い主であれ、団体であれ、命を迎え預かる責任も必要な義務も等しくあります。
さらに多くの動物を抱え育成することには、豊かさや喜びや発見と同じように、義務も責任も増え難しさもあります。命を託す立場となれば…その幸せへの責任の重さは計り知れません。
さまざまな事情でセンターに収容される犬たち。なかでも無責任な飼い主の管理のひとつ所有者不明の犬たち。
引き取り手がなければ、団体やボランティアの皆様のもとで精神的なサポートを受け、新しい飼い主との縁と幸せを待ちながら保護犬となる犬たち。
そして、団体やボランティアの皆様のもとで様々な犬たちが同居する環境で引き受けることが難しいと判断がなされた犬たちは処分となる。
本来なら、みんな同じなのに。
そう、皆さんがよく口にされる「どの子も同じ尊い命」です。
けれど、団体が引き出す際もすべて救えるわけでもなく、引き出す以上は命を預かる責任が生じるわけです。新しい飼い主さんに託す時まで大切に育み幸せにするために引き出しされるわけです。
団体なら施設スペース、個人ボランティアなら更に限りがあるので選ばなければならない。施設には保護された動物が同居し共同生活するのだから、自分たちが引き出しても暮らしに負担がかかったり不幸にならないためには、性格・病気や体調など、それぞれに丁寧に確認をされながら選ばなければならないと思います。
決して差別ではなく、誰でも下せるような簡単なものではない理解を超えるような苦渋の選択であり適切な判断であると私は思います。
私たちの立場からは、譲渡や譲渡条件に置き換えて考えると分かりやすいかもしれないですが、決して厳しいものではなく、人も犬も幸せになってほしいという譲渡であればこそ、相性も暮らしのスタイルも見ながら丁寧に判断してくださるのも納得できる思うのです。どうでしょうか。
私も預かりをするので少しは分かります。常時でなく時々のことですから、幸いスペースにゆとりもあり多少の問題は工夫で乗り切れます。日頃からお手伝いしてる方々のペットで行き来し関係は築いていても、環境も変わり飼い主さんが不在なわけですから、私が犬でも同じこと、ストレスはあるものと考えています。人とは上手く接することができても犬同士では難しい犬もいますし、甘えたくてヤキモチを焼いたり、強いストレスを与えたり怪我などさせられないですから、ある意味では工夫できる環境よりも大切なのは犬たちのことです。
動物愛護習慣(週間)…
保護なんて出来なくてもいい。私が思う一番の愛護は、その動物と最期まで向き合い共に生きる喜びを知り、幸せに飼われている飼い主の皆様です。
せめて私は、愛犬のために出来ることをしよう、皺寄せのない地域にしよう、模範的な飼い主となれるようにしよう、自分の地域の飼い主の意識の向上につながる啓発に努力しています。
飼う覚悟と責任感のない飼い主から不幸な犬たちが生まれます。もっと言えば、そんな飼い主しか不幸な犬たちは生まれません。
その背景には、可愛い可哀想で安易に命を迎える心理と、それができる世の中、繁殖と生体販売の問題もあります。販売するなら販売側の責任として、幸せになれるように動物愛護法、条例、適正飼育、終生飼育、所有者の明示の義務、彼らが不幸にならないための最低限の説明もしてほしいです。
衝動買いされた小さく可愛い犬たちも大きくなったら飽きてしまう、お世話をすることが大変で飼育放棄、脱走した犬が迷子になったまま、引越しで飼えなくなった、子どもがアレルギーで、あげたらキリがない。
どんな事情を並べても私にすれば勝手、犬の気持ちを無視した人間による都合でしかない。しかし、何人もの勝手な事情により手ばなす人たちにも触れてきて思うこともありました。
自分の招いた結果を受け止め、飼い主としての最後の責任を持ち、愛犬への愛情を決して捨てることなく、幸せを願って必死で新しい飼い主さんを探され、頭をさげてお願いされた方々です。こんな方々もいるんだと知り、決して批判に値するばかりでもないということも知ることもできました。
だからこそ、私は捨てる人を許さない。絶対に許さない。
この子のために新しい飼い主を自分で探してあげてくださいと願うのです。誰でもない、犬のことを知る唯一の飼い主なのだから、犬の幸せのために、その方と犬が幸せになれるような人を探してあげてくださいというだけなんです。
ペットの殺処分を考えるとき、『殺処分ゼロ』にすることよりも、こうした背景にある不幸な犬たちを根本的に減らすために私たちは真剣に考えて、家庭に迎えた動物と生涯をともに暮らす幸せを求めつづけていきましょう。
Lovely days CHIKA'S MIND TRIP
追記:
ピースワンコについてブログをいくつか書かせていただいてきましたが、たくさん考えました、たくさんの気持ちや考えに気づかせていただきましたが、今日で一区切りとさせていただきます。
一日は短く、愛犬との時間と仕事と地域のこと、いただくご相談、気になる他の事にも目を向けていきたいこともあり、これ以上この件で考えても繰り返しとなることが増え、今の自分自身ではこれ以上はないという感じなんです。
ピースワンコの今後、広島県の今後、犬たちのために支援される皆様とともに良い方向に向かうことを願っています。いつも長いブログを読んでくださった皆様、気持ちを寄せて考えてくださった皆様、ありがとうございました。次回は違うお話を…
広島県、県ぐるみでピースワンコをオフリードにするのはやめて…
Lovely days CHIKA'S MIND TRIP
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